トピックス

横浜勤労者福祉協会「60年のあゆみ」ができました

2013.12.11

hyoushi

「60年のあゆみ」PDF(約13MB)


「巻頭の辞」

公益財団法人横浜勤労者福祉協会理事長 窪倉孝道

私ども公益財団法人横浜勤労者福祉協会は、今年創立60周年を迎えます。この間、多くの皆さんからご支援・ご援助いただきました。代表して心から御礼申し上げます。

1953年12月、鶴見区下野谷町に医師1人、看護師1人、事務1人の小さな「汐田診療所」が誕生しました。鶴見地区の労働組合や民主団体など働く人々と地域の皆さんの期待と熱意によってこの診療所は出発しました。開設当初は、診療時間の表示もなく、いつでもどうぞという診療体制で奮闘し、地域の皆さんの信頼を勝ち取っていきました。翌年には有床診療所となり、7年後には、32床の「汐田病院」となりました。内科、外科、小児科、産婦人科、放射線科を標ぼうしていました。

高度経済成長時代(60年代中頃~70年代)、社会がめまぐるしく変わり、国民の疾病構造が大きく変化していく中で、汐田病院は、時代の流れを受け止めながら、切実な地域の要求に応える医療活動に邁進しました。全職員参加の疾患別グループ活動、労災、公害、被爆者医療、老人健診の取り組み。低所得者、生活困難者への対応も強め、社会事業法に基づく「無料低額診療事業」を1965(昭和40)年から開始しました。友の会が1974年に結成され、友の会を中心とした地域の皆さんの協力で、病院の増改築工事を行い、142床の病院となり、区内の救急医療を担う、当時の中核的病院へ発展しました。

高度経済成長が終わり、「福祉見直し」「日本型福祉社会」論の登場とともに、医療・社会保障制度の改悪が進められました。その中で、汐田病院は、脳卒中をはじめとする脳血管障害の医療活動を開始し、その他専門外来の強化にも努めました。1987年に「汐田総合病院」となりました。また、汐田歯科診療所(1979年開設)、梶山診療所(1979年開設)、清水ヶ丘セツルメント診療所(82年法人合併)、汐田理学診療所(1986年開設)、みどり野診療所(1997年法人合併)など、診療所の開設や合併で医療活動を広げていきました。「共同組織」として位置づけられ友の会は、毎年会員を大きく増やしていきました。

2001年4月、汐田総合病院は、現在の鶴見区矢向に新築移転しました。高齢化社会に向かう「社会保障改革」が進められる中で、介護保険事業がスタートし、横浜市東部中核病院の開業を軸とする地域医療の再編がこの間に、進められてきました。私たちは、社会福祉法人うしおだを2002年に立ち上げ、今後の介護事業への本格的な準備を開始しました。新築移転した汐田総合病院は204床の急性期病院としてスタートしましたが、回復リハ病棟の開設、療養病棟の増築、うしおだ在宅クリニックと訪問看護ステーション三ツ池の病院門前に開設するなど、政策的な動向や社会背景、地域医療情勢の変化の中で、「無差別平等」理念を貫きながら医療から介護・福祉にわたる総合ケアサービスを提供する施設(群)へと変わってきました。地域の高齢化が進み、在宅患者が増えていくニーズに対応させながら、キュアからケアへと事業活動を広げてきました。この方向性をより明確にするため、昨年うしおだグループビジョンとして、「無料低額診療事業として、医療福祉介護にわたる総合サービスを提供し、共同組織とともに地域の患者・利用者の生活を支える」を決定しました。

60年間を振り返りますと、3人から出発し、常勤職員600人、非常勤職員を含めれば1,000人を超える4つの法人と2万2世帯の「よこはま健康友の会」に発展した原動力は、第一に無差別平等の理念の基づく医療介護福祉事業が多くの方々に受け入れられたこと。第二、職員一人ひとりのがんばり。第三に、友の会をはじめとする地域の方々の物心にわたるご支援があったことだと思います。

国は本格的な高齢多死社会に向かう準備を急ピッチで進めています。社会保障費総枠の伸びを抑制しながら、医療介護供給体制の整備と再編を全体的に進め、医療から介護へ、病院から在宅への流れを加速させようとしています。私たちは、「守るべきもの」を守りながら、こうした情勢の変化に対応する「自己変革」する組織としてあり続けることが今後も必要だと考えています。

今回、法人創立60年を記念して、その歩みを年表としてまとめました。この間の歴史と到達を、職員、友の会・地域の皆さん、これまでご支援頂いた方々と共有し、今後の一層の努力と連帯を誓う機会にしたいと思います。